過去の地震から学ぼう! 2
福井地震(1948)
1948年6月28日16時13分、福井地震(1948)が発生した。マグニチュードM7.1、福井平野全域で強い揺れが発生し最大震度は6であった。この地震をきっかけに気象庁の震度階級に「震度7」が設けられたことを考えると、福井地震では震度7の地域もあったと推定される。
福井平野の地盤が弱かったこと、福井市中心部に人口が密集していたことが被害を助長させ、戦後の市街地を復興したばかりの福井市で建物全壊率が80%,福井平野全体でも60%程度と推定される。戦後復興期であったために、バラック建てなど弱い建物が多かったことが建物被害を大きくした一因となった。死者は福井、石川県で約3800人と言われている。大和百貨店の1階が全壊した近くで福井銀行がほとんど被害を受けなかったことが知られているが、建物の基礎杭の違いであったことが判明しており、地震対策をして頑丈に作られた建物は震度6~7程度の揺れにもびくともしないことが裏付けられたとも言える。
発生時刻が夕方で、夕食の支度中の家庭が多く、福井市では数十件の火災が発生し延焼した。関東大震災でもそうであったように、食事支度中に地震が発生した場合は、火災被害が甚大になることが多い。かたや、農村部では人的被害が多くなかったのは、まだ屋外で農作業中の住民が多かったためと言われている。このように、大地震が発生しても、「住民がどこに滞在しているか?」により、人的被害は大きく異なってくる。
日常の行動範囲内で、「地震・火災に弱い危険なところに滞在していないか?」「ここで災害が発生したら、どのように避難するべきか?」を、できるだけよく考えておくことも大切である。
新潟県中越地震(2004)
2004年10月23日17時56分、新潟県中越地方を震源として、M6.8の直下型地震が発生した。新潟県中越地震(2004)と命名されたこの地震では、兵庫県南部地震(通称阪神・淡路大震災、1995年)以降、2回目の最大震度7を観測した。小千谷市、十日町市、長岡市を中心に強い揺れが起こり、死者46人、全壊2827棟、半壊12746棟に及んだ。この地域では約1400人の死者を出した三条地震(1828)以来、大地震に見舞われたことがなく、まさに「地震の空白地帯」を襲った大地震であった。
この地震の特徴は規模の大きい余震が長期間発生したことである。本震の40分以内に震度6強が2回発生、4日後にも震度6弱、その後も震度5の余震が頻発した。翌年になっても震度4の地震が発生し、避難生活は長引き、復旧作業にも影響が出た。
新潟ののどかな山間部を襲ったこの地震により、電気、ガス、水道、電話などのライフラインが長期間ストップし、道路は数千カ所がずたずたに寸断され、山間部の集落が孤立した。余震も多く、そのたびに避難者が増え、一時10万人を越える避難者が生じた。特に山古志村では全道路が寸断され、全村民がヘリコプターにより避難する事態になった。また、新幹線開業以来はじめての新幹線脱線事故(「とき325号」の脱線)が発生した。
死亡の原因は建物倒壊、地震のショック、エコノミークラス症候群などであり、長引く被災者生活、自家用車避難などにより「エコノミークラス症候群」が起こることが一般的に知られるようになった。
なお、直接被害を受けなかった上越、下越地域、佐渡島が地震の風評被害に悩み、観光客の予約取り消しが大量発生するなど、新潟県の経済に大打撃を与えた。
東南海地震(1944)三河地震(1945)
1994年(昭和19年)12月7日13時36分、四国沖から静岡県の御前崎まで東西に伸びている南海トラフを震源としてM7.9の地震が発生した。和歌山県新宮市付近から破壊が始まり、北東に破壊が進み浜名湖付近まで達したとみられる。フィリピン海プレート(海洋プレート)とユーラシアプレート(大陸プレート)の境界で発生した海溝型地震であり、紀伊半島から静岡県東部にまで幅広い地域が激しい揺れに見舞われた。
後に家屋倒壊率を元に推定された最大震度は7、津波も発生し、三重県尾鷲で最大9mあったと推定される。また、東南海地震から1か月後の1945年1月13日3時38分、愛知県内陸部を震源とする三河地震(M6.8)が発生している。直下型地震であったため、現在の安城市、西尾市に甚大な被害をもたらした。過去にも類似地震例があることから、東南海地震に誘発されて起こった内陸直下型地震の可能性が指摘されている。
これら2つの地震は戦時下に発生している。報道管制下にあり、地震報道は極力抑えられたこともあり、被害の実情が把握しきれていないところがある。
東南海地震では、揺れと津波による死者・行方不明者は1200人余り、津波は特に三重県の海岸に集中した。東海地域の多くの軍需工場が壊滅的な被害を受け、学徒動員された多くの中学生が倒壊工場の下敷きで圧死した。
三河地震では就寝中の建物倒壊による圧死者が多く、三河湾北部の蒲郡市、西尾市、安城市などに集中し、死者2300人余りに達した。被害の様子は阪神・淡路大震災に似ていたと言われる。
南海地震(1946)
東南海地震、南海地震は過去100~150年感覚で発生しており、江戸時代以降400年で4回発生している。1707年の宝永地震では同時発生したといわれており、安政東海地震・安政南海地震(1854)の安政東海地震・安政南海地震は32時間間隔で発生している。
この地震の歴史を裏付けるように、東南海地震(1944)の2年後に南海地震(1946)が発生した。1996年(昭和21年)12月21日4時19分に発生した南海地震(1946)は、紀伊半島沖の南海トラフを震源とした海溝型地震でM8.0の巨大地震であった。
津波が発生し、紀伊半島、四国、九州の海岸を来襲し、高知、三重、徳島の沿岸では津波高さ4~6mに達した。死者・行方不明者は1,330人、家屋全壊11,591棟、半壊23,487棟、流失1,451棟、焼失2,587棟と報告されている。
終戦直後の混乱期に発生したため、被害実態に不明な部分が多い。四万十市では市街地の8割が火災延焼で焼失、串本町や海南市は津波によって壊滅的被害を受けた。
室戸半島、紀伊半島が南上がりに傾き、室戸で1.27m、潮岬で0.7m上昇、須崎・甲浦で約1m沈下が認められた。
東南海地震、南海地震はおよそ100年を周期として繰り返し返し発生しているため、国の防災対策のなかでも優先順位が高く、「南海トラフ地震対策特別措置法」(2013)が制定されている。
また、本年2017年8月に、国の中央防災会議の作業部会が「大規模地震対策特別措置法(大震法)」を40年ぶりに見直した。これまでは東海地震予知を前提に対策が進められていたが、予知が難しいことが判明し、また東海地震と震源域が重なる東南海地震、南海地震もいっしょに起こる可能性も指摘されていることから、南海トラフで発生する巨大地震をまとめて防災対策を推進していく方針が示された。
昭和三陸地震(1933)
1933年(昭和8年)3月3日2時32分に発生したM8.1の昭和三陸地震(1933)は、大陸プレートと海洋プレートがぶつかり合う三陸沖約200kmのところで発生した海溝型地震である。明治三陸沖地震(1896、明治29年)とほぼ同じ場所で発生しており、震度は4~5程度であったと推定される。揺れが小さいのは震源が遠かったからであり、明治三陸地震では陸地の震度はもっと低かったと言われている。
地震発生から30分御に津波の第1波、第2波がもっとも高く10mを越えた。津波は計6回押し寄せた。地震の揺れを感じたことから、住民は高台に避難を急いだが、が、3064人の死者・行方不明者が生じた。岩手県田老村ではほぼ全住戸が流出し、半分近い住民が津波にのまれた。
その後、津波を恐れ高台への集団移転も実施されたが、生活環境になじめず元の低地に戻る方も多かった。この地震を契機に被害地域沿岸に防波堤の整備が進み、被害が大きかった田老村には高さ10mを越える防波堤が築かれた。
三陸地方では明治よりさらに昔から繰り返し津波が発生していることから、「地震があったら津波!高台へ逃げろ!」の言い伝えや家族の伝承があったと言われている。しかし、災害がない平穏な時が長く続けば、このような言い伝えをだんだんと風化されてしまう。
このような風化を防ぐ意味でも、「津波てんでんこ」「命てんでんこ」という防災教訓、標語が生まれた。
岩手県田老町で開催された「全国沿岸市町村津波サミット」(1990)における山下文男氏のエピソードがもととなり、「津波が来たら各自ばらばらに逃げろ」「自分の命は自分で守れ」ということである。「他人を置き去りにしてでも自分は逃げよう」ということではなく、家族を探したりしているうちに、とっさの判断に迷って逃げ遅れるのを防ぐのが大切という言外の意味があるようだ。
さて、山下文男氏のエピソードは本題の昭和三陸地震(1933)がもととなっている。津波発生時、父親と兄弟が9歳の文男を置き去りにして逃げたというものである。山下の母が父親の非情さをなじったが、山下の父は「なに!てんでんこだ」と反論したという。山下の友人に置き去りにされているものも多く、集落内では「津波は各々逃げることが大切」という行動が浸透していたようである。
このように、日本には大きな地震がよく発生している。そのような場合に備えるために、「地震対策グッズ」などがあると安心だろう。
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